先日、親が亡くなった話
- kakapoacu
- 2025年5月1日
- 読了時間: 7分
先日、8年間介護した父親が亡くなりました。
年明け早々から入院して、ここでも、
「親が余命いくばくもない話」として
その時の状況を書かせて頂きました。
頭の中の整理を付けたくて、
ここに書かせてもらってる所はあります。
ここで書いた事を自分で読み返して
自分で自分の頭の中を整理してるのだと
思います。
ここはそう言った意味で活用出来る場所
でもあると思います。
読んで頂いてる方には、
私事で申し訳ありませんが、
ご縁があって読んで頂いて嬉しいです。
8年前、脳梗塞で倒れた父、
父はアルコール依存症で、
酒がないと何も出来ない人間でした。
特に僕が家を出てからはその傾向が
強くなったようで、僕の知らない所でも
色々と問題を起こしていたと、
後々になってから母に聞かされました。
父は昔から酔うと記憶を飛ばして、
問題行動に出てしまう人でした。
死んでから知人に聞いてみると 人に迷惑をかける様な飲み方は してないと言われておりますが、 (実際はそんな事はない) 家族としては最悪な人間でした。 少年期の僕はそんな父の酒癖が
嫌いで度々、家の中で喧嘩になり
母や祖母に心配をかけておりました。
10代の僕は父に対して嫌悪感が強く
早々に家を出て暮らしていました。
そこから紆余曲折あり、
僕も30代に入った頃、
父が脳梗塞で倒れました。
その時、僕はカナダで仕事して
部屋を借りて慎ましいながらも
海外生活を楽しんでいる最中でした。
海外生活も7年近くなった頃、
早朝にかかってくるはずのない
実家から電話が鳴りました。
母からの電話で父が倒れて
入院している事を知ります。
そして、今後、状態が大きく改善する
事はなく介護が必要な状態になって
しまうとの事でした。
僕は一人息子の為に選択の余地もなく
帰国する事になりました。
職場に話をして、部屋の大家さんに
話をして銀行のアカウントを解約したりとか
バタバタと帰国の準備をして、
電話から5日後には日本に急遽、
帰国した記憶があります。
帰国して直ぐに病院に向かって、
そこには変わり果てた父がいました。
自分で立つ事も出来ず、
涎をダラダラ垂らして、
同じ事を何度も繰り返し喋り
認知機能、身体機能、
共に障害を負っていた父の姿でした。
要介護度は5、
自分では食事も排泄も出来ない状態です。
その時、ソーシャルワーカーさんに
今後、介護で毎月多額のお金がかかると言われ、
酷く絶望した記憶があります。
その時の僕は勿論、無職(帰国したばかり)
で先も見えてない状況だったので、
自分でなんとかしてやろうと思っていました。
おむつ替えのやり方を教えて頂いたり
毎日の様に病院に行って、
看護師さんや理学療法士さん、
作業療法士さんとお話をして
より良い状態にする為には
勉強させてもらいました。
嫌いな父ではあるものの、
だからと言って放っておく訳にもいかず、
施設に入れるにも多額のお金がかかる。
だとしたらとりあえず、
自分が面倒をみるかと、、、
この時の判断が正しかったのかどうか、
のちに、介護業界の友人に
「無理して家族で看病しないで
プロにお願いした方がいいよ」
と言ってもらった事を凄く覚えています。
その言葉もあり、地域包括支援センターに
連絡してケアマネージャーさんに
相談してデイサービスを入れたり、
自宅を改修したりして
介護生活がスタートしました。
それまでに、父はリハビリで
驚異的な回復を見せて、
脳外科の先生が奇跡だと言う位の
復活を遂げていきます。
つまりは、ヨロヨロではあるものの、
自分で立って歩いてトイレに行く事が
出来る様になり、食事も自分で
箸と茶碗を持って取る事が
出来る様になりました。
その時に担当して頂いた理学療法士さん
作業療法士さんには本当にお世話になって
プロの仕事の凄さを間近で拝見させて
頂いた事が深く記憶に焼き付いてます。
そんなこんなで、
介護生活がスタートしました、
平穏な日々が過ぎていきます。
認知機能が落ちてるので、
短期記憶は10分程度しか持ちませんが、
生活をする上では特に問題はありません。
そんな平穏な生活が半年程続いた時でした。
その時、僕は日本で新しい勉強の為に
夜間の専門学校に通い、
昼は老人介護施設でアルバイトをしておりました。
父の状態が思いのほか良くて、
新しい事にチャレンジ出来ていたのです。
しかし、そんな平和な生活も一変突然の
てんかん発作を起こして自宅の和室で痙攣、
そのまま救急車で運ばれる事件が起きます。
なんとか状態は落ち着きましたが、
本人は薬の影響か、妄言、幻覚、
が酷く死んだ親戚がまるで生きてるかの様に
話をして、支離滅裂な事を言っていた事を
記憶しております。
そして、その後の数年間、年間に一回か
、二回は救急車を呼ぶ様な事が起きました。
大体は転倒による骨折でした。
大腿骨頭骨折からの大腿骨頭置換術で
太ももの根本の骨をチタンの物に
入れ替える手術を受けたり、
転倒で肋骨を骨折したり、
年末に緊急入院した際には、
コロナの影響で数日会えず退院後
僕の名前さえ忘れてしまい、
自分の家にいるにも関わらず、
ここがどこか分からなくなってしまい
外に出ようとしたり、
自分がまだ現役で仕事をしてると勘違いして
やり残した仕事があると深夜の家を出ようとしたり、
世話をしないとパニックになり、
どうしようもないので世話をしていると
「余計な世話をするな!!」
と憤慨して怒鳴り散らしたり、
言い出したら、キリがない位の出来事が
8年間に沢山ありました。
好きでも尊敬も出来ない父に
どうしてこんな風にしているのだろうと
思う事もありました。
死んだ今でもどうして面倒なんて
みたのか未だに分かりません。
当分は分からないままだと思います。
とは言え、父は死にました。
色々あるとは言え、色々な方々に支えられて、
父との生活は成立していました。
もっともっと酷い状況の方も
沢山おいでだと思います。
こんな生活があと10年位は
続くのかなとぼんやり思っていましたが
終わりは突然やって来ました。
今年の1月7日に七草粥を食べている最中に
父の身体が突然固まり出して、
脳梗塞か!?と思って救急車を呼びました。
そこから実際入院するまでは
本当に辛くて他の記事に書かせてもらいました。
それから3ヶ月、彼は逝きました。
その3ヶ月は肺炎を起こして、
治療、その間に肝臓癌も見つかり、
1ヶ月持てば良い方と言われ、
終末期医療の病院を紹介されて転院しました。
転院する際、立ち会い、介護タクシーで
郊外の病院に行く時、父はまだ、
ギリギリコミュニケーションが出来て、
僕が来た事を嬉しそうにしていました。
転院してから17日目の早朝5時半
病院から直ぐに来て欲しいと電話がありました。
急いで、タクシーを呼んで
病院に向かい着いた時、
父はもう亡くなっていました。
つい10分程前に心停止したとの事でした。
父の身体はまだ温かく、
寝ている様にも見えました。
しかし、完全に動かない父をみて、
ついに逝ってしまったかと思い、
この数年間の色々な思いが蘇りました。
色々と浸っていたい気持ちもありましたが
気を取り直して、葬儀屋さんに連絡したり
親戚や父の友人に連絡したりとバタバタ。
そんなこんなで3週間程が経ち、
今こうして書かせてもらっている次第です。
書きながら色々あったなぁと思いながら、
不謹慎かも知れませんが、
本音を言うとどこかホッとしているのです。
最後の父は手足を縛られて、
ベッドに横になりしっかりと
発声する事も出来ず、
苦しそうで見るに耐えない物でした。
今はただ、お疲れ様、
ありがとうございました。
ただそれだけです。
長々と、私事を書いてしまいました。
読んで頂いた方はありがとうございます。
結局、最後まで居ちゃった僕ですが、
今この瞬間にも介護で苦しんでる方々
本人もご家族も少しでも何かが良くなる様に
思うばかりです。
一人で抱え込まず、
まずは誰かに相談するのが
良いことかと思います。

ご拝読ありがとうございました。





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